岡本文弥作、泉鏡花原作、新内「辰巳巷談」

先日、新内岡本派の岡本宮之助氏が、岡本文弥の「辰巳巷談」(泉鏡花原作)を復活演奏した。この曲が演奏されるのは45年振りで、宮之助氏にとっては初演。

前もって筋を理解しておいた方が良いだろうと思い原作を読んでから行くことにした。

いずれ忘れてしまうと思うので、あらすじを記録しておく。が、もろもろ正しくないところもあると思います。ご容赦ください。


 

場所、現在の江東区。永代橋を抜けて門前仲町、汐見橋、木場周辺。

時代、明治中後期頃。

現在の木場駅の南に洲崎という遊郭があった(戦後は洲崎パラダイスという赤線地帯になった)。そこにお君という十代後半の遊女がいた。お君を世話していた新造(付き人兼マネージャーのようなもの)のお重は不憫に思い親切心で、お君が遊郭から出られるよう金策をし、自分の家に置いた。

お君は、客としてきていた二十代前半の青年、鼎(かなえ)と相思相愛で、会う約束をしていた。

小説の冒頭シーン。人力車に乗って茅場町方面から、いくつかの橋を越えて、お君がいる長屋にやってきた鼎。着いた頃にはすでに夜遅く、戸を叩くのをためらっていると向こうから中年男性の声が聴こえ、そのまま逢わずに引き返した。

汐見橋まで戻ったところで、見知らぬ男たちに囲まれ人力車を降ろされる。そこに、先ほどお重の部屋にいた中年の船頭、宗平がやってくる。鼎がお君に会いに来たことを咎め暴力を振るう。

新造のお重は、お金を工面する際にあちこちから借りていて、その中に宗平もいた。見返りに相手をさせる、とお君に断りもなく決めてしまっていた。妻子がいるが夜な夜なお重の家にやってくる。宗平はお君が遊郭に入る前から恋心を持っていた。そんなことで、鼎に対しては嫉妬心を抱いている。

殴られて、さらに酷い目にあいそうな鼎だったが、突然現れた女性、沖津に救われる。沖津は門前仲町の長屋で暮らす三十代後半の独身女。仕事は行商で、櫛や髪留め、化粧品などを洲崎で売っている。

沖津が鼎をどのように救ったか、その詳細は書かれていないが、後ほど分かることで、沖津と宗平は全く知らない仲ではない。沖津は傷ついた鼎を自室に連れ帰る。鼎は熱を出して寝込み沖津は看病する。

沖津は洲崎でのお君と鼎の存在を認知しており、二人を愛おしく思い引き合わせる。なぜ愛おしく思うのか。沖津の過去。沖津はかつてお君と同じ境遇であった。不憫に思い他人事と思えずお君を思うのはお重と同じだ。

しかし間もなく、鼎は自分の息子であると知る。かつて手放した息子であり、そうである以上、遊女と深い仲にさせるのは鼎の将来に良くないと考え(てしまい)、お君と距離を置くようになる。鼎に何と説明したのかは記述がない。

お君は沖津の部屋を何度も訪ねるが、鼎にも沖津にも会うことができない。はっきりとした理由も分からないまま、そんな日々が3ヶ月も続き、心身ともに疲弊しきってしまう。心に余裕がなくなったお君は、頑なに、操と祈りが相まって、いっそう宗平を遠ざけ関係を拒む。余計に苛立つ宗平は度々暴力を振るうようになる。

そんなことでお君とお重の関係も悪くなり、宗平は宗平で、妻と子供が病気、金もなく、慕ってくれていた若い衆も離れ八方ふさがりになっていく。

こうして、長屋の一室を共にする三人の心はぼろぼろになった。

お君は、遊郭(=苦界)から逃れたはずなのに逃れられない。親切にしてくれたお重や沖津との関係も破綻してしまう。宗平の心も限界まで追い込まれた。その沸点はふたたび汐見橋に集約される。

鼎に会えない帰り道、お君はふらふらと汐見橋にひとり立っている。そこに異様な雰囲気の宗平がやってきて、手には包丁。お君に関係をせまり、あげく心中、駆け落ちをせまる宗平。それを拒むお君。

「かなえさーーーん」

ついに胸を刺され倒れるお君のもとに沖津が現れる。沖津は心を変えてお君に会いに行くところだった。

沖津は死の間近のお君を胸に抱えて謝罪し、鼎との関係(母子)を伝えたうえで、自分のことを「おっかさん」と呼んでくれと言う。また、独りでは死なせないとも。一方宗平には、何事もなかったようにしてここから逃れ、家族のもとに戻るように言う。

「土手の芝人に踏まれて一度は枯れて 露の情けでよみがえる」

放心し、帰宅の途につく宗平の歌声が深川の夜の街に響き渡り、間際のお君の耳にも届く。その歌はお君がおいらんだった頃、これは自分の歌だと思い、常々歌っていたものだった。

包丁を拾い自らを刺し、抱えたお君に重なる沖津。

 


新内「辰巳巷談」では、このうち後半部分にあたる汐見橋のシーン、(演奏後の宮之助氏曰く)ストーカーと化した宗平とお君のやりとりからはじまる。

そこに至る経緯がばっさりカットされているので、原作を読んでおいて良かったです。

演奏はとても良くて、長年にわたって封印されていたのが不思議です。

当日配布していただいた文章(もっと色々読みたい)によると、「ああいった大上段にふりかぶった様な浄瑠璃は演りたくない」と文弥氏はおっしゃっていたそうです。

岡本文弥「辰巳巷談」は残念ながら正式にはリリースされている音源がありません。同じく泉鏡花原作の「月夜の題目船(葛飾砂子より)」はCD化されており現在も売っています(新内珠玉集4に収録)。これも深川、遊女の話で、街に響き渡る声が印象的な作品です。

追記
昨日、友人のはからいで文弥さんの古い録音を聴くことができました。とっても良かった・・「かなえさーーーん」


新内は遊女の話、つらい話も多く、こちらの具合によってはおいそれと聴けない日も多々あるのですが、聴くと素晴らしい。

近頃、憲法改正なんて話もありますが、人権、平等というのは大切にしなければいけないとあらためて思います。

いま反戦文弥作品を語る

この日記(https://ghost.readymade.jp/?p=566)を書いてから、岡本文弥 新内珠玉集(http://www.teichiku.co.jp/catalog/okamoto-bunya/)や、知人からダビングしてもらい、古典もいくつか聴くことができた。

オリジナルでは「富本豊志賀」「たぬき」「月夜の題目舟」、古典では「弥次喜多」なんかがいまのところ好きだ。

やはり生演奏も聴いてみたいと思い、文弥の新内を継承する岡本派(http://www.okamotomiyanosuke.com/)の公演に行った。

カッパの道行
ぶんやありらん
西部戦線異状なし

出演:
浄瑠璃 岡本宮之助
三味線 鶴賀喜代寿郎
上調子 岡本文之助

岡本文弥最晩年の作品「ぶんやありらん」が良かった。語りの内容は重いのだが、瑞々しくてすっと入ってきた。

戦後70年、また近頃の政治の動きもあって、この演目での会を開いたとのことだった。

弦楽器ということで、やはり三味線も気になった。大きな撥(ギターのピックに比べれると)だが、鶴賀喜代寿郎氏はじつに柔らかいタッチで、強弱弾きわけていた。アンプやPAを使えば、ああいったニュアンスは相当失われる。

来週は同じ場所(お江戸日本橋亭)で、怪談をテーマにした演奏会がある。

長生きも芸のうち – 岡本文弥百歳/Bunya Okamoto 100 years old

 長生きも芸のうち – 岡本文弥百歳/森まゆみ著

 新内の浄瑠璃太夫、4代目岡本文弥がサバサバとした口調であれこれを語る。聞き役は作家の森まゆみで、あとがきには聞き書きとある。語られたものを元に資料をあたり補っているところもあるようだ。これはマイルス・デイビスとクインシー トループの名著『マイルス・デイビス自叙伝』に近い手法だ。出版は20年前の1993年。

  1895年生まれで101歳の長寿とあって、明治・大正・昭和と語る時期も幅広い。出会った人々についても多く語っているが、話題に上るのは竹下夢二や永井荷風といった授業で教わるような人物から、知る人ぞ知る芸の達人と多岐に渡る。その際、時に厳しい言葉で芸や人格について意見を述べているのだが、あっさりとして嫌味がないのが面白い。
 それでももし言われた当人が読めば腹が立つだろうが、すでに多くの方は灰になっており本を持つことさえ出来ない。逆もある。例えば盲目の初代柳家紫朝について語っているところ。

しずかに高座につき三味線をかかえるのがおぼろげに見える。この人の芸は声が小さく静かで、狭くてほそぼそとして、身をのり出し耳をあてないと聞けないようなものですが、客の心をギュッとつかみ、しぜんと涙が出るのです。修行した芸ですからじつに深みもあって節まわしもいい。

「あの人は実物を聞いてないでしょう、多分レコードでしょうけれども」とも書かれているので録音はあるのだろうが、手軽に聴けるようなものではなく今は想像する他ないが、余計に美化され魅力が増してゆく。脳内では輝く旋律のおぼろげな輪郭が明滅している。

 新内の成り立ちについてもページが割かれている。「新内の大もとは京都の一中節」としていて、時代的には17世紀末から18世後半にかけて確立したことになる。その間、一中節、豊後節、常磐津節、富本節、富士松節、清元節、新内節と「節」がたくさん出てくる。

 少しそれるが、ブルースがミシシッピ・ブルース、テキサス・ブルース、シカゴ・ブルースなど地名で呼ばれるのに対して、都太夫一中(みやこだゆういっちゅう)の一中節、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の豊後節、鶴賀新内(つるが しんない)の新内節と名から呼ばれているものが多いようだ。デルタ・ブルースとひとくくりにしても、チャリー・パットン、サン・ハウス、ロバート・ジョンソンでは相当違うわけで、「節」を「ブルース」に置き換えれば、パットン・ブルース、ハウス・ブルース、ジョンソン・ブルースとなる。地域と個人の名、この差は案外面白いかもしれない。

 しかし何気なく話をブルースに置き換えるのは、純邦楽が自分にとって身近ではなく、対して無知であるからだろう。何かとそうしがちだ。
 福井で存命の大叔母は三味線を弾くが、身内ではそれくらいで、晩年一緒に暮らした祖父はハーモニカか演歌のカラオケだった。若い頃はギターとアコーディオンを弾いたらしいが、右手を失い片手で扱えるハーモニカにしたそうだ。両親は楽器をしないので、おそらく自分が初めて触れた楽器は兄が習っていたエレクトーンだろう。幼稚園では合奏でバスドラムを叩いた記憶がある。次は縦笛だろうか。

 新内の歴史に戻ると、京都の僧侶が一中節を始め、その弟子が宮古路豊後掾を名乗り名古屋を経て江戸へ。豊後節は大変な人気を博したが心中などを扱う内容が風紀を乱すとされ、奉行所から興業も稽古も禁じられご法度になってしまう。宮古路豊後掾は京都に帰り死んだ。江戸には残った弟子達はそれぞれ常磐津、富本、新内の富士松を立てる。後に富本から清元が別れた。
 富士松派をおこした富士松薩摩掾(ふじまつさつまのじょう)の弟子、鶴賀太夫は反旗を翻し鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)を名乗った。出身地丸出しの名である。(敦賀の若狭湾は綺麗な海だ。親戚もいたので海水浴によく行った。残念ながら高速増殖炉もんじゅで有名になってしまったが。)
 鶴賀若狭掾は新内の代表曲「明烏」「蘭蝶」の他、多くの浄瑠璃を作ったとされている。言わば大作曲家である。そしてこの人の弟子の一人が鶴賀新内を名乗った。「この人は、よほど芸に特色があって、なんでも花柳病(今で言う性病)のため声が鼻に抜ける、それが大変面白く聞かれたそうで…」とある。また「別段、新作はないのですが…」ともあるので歌はあまりつくっていなかったのだろう。敢えてボサノヴァに例えるなら、鶴賀若狭掾がトム・ジョビン&ヴィニシウス・ヂ・モライスで、鶴賀新内がジョアン・ジルベルトだろうか(やはり置き換えると取っ付き易くはなる)。

 芸は変化を続ける。それがある時点で型となる。変化を続ける線と型として留まる点。線は時に型に還りまた進んでゆく。それはレコードやデジタルデータによって、共同体や師弟関係、教育機関に属さない人間にも広がった。孤独な環境であっても音楽の歴史の線と点に触れ、自らの音楽を奏で、望みさえすれば発表し、新たな線や型となる。

 岡本文弥は若い頃は遊廓でも流し金沢では儚い恋などもあったようだ。この話は印象深かった。相手の女性の名(源氏名)は飛行機という。当時変わった源氏名が流行していたとか。この名前が妙に引っかかっている。廓(囲い)の中の飛行機とは出来過ぎではないか。
 その飛行機との禁断の恋はすぐに噂になり廓から閉め出されてしまう。その後東京から金沢へ何度か通ったものの、廓に入ることは許されず会うことは適わなかった。
 二十数年後、戦後になって旧友から一通の手紙を受け取る。旧友は越中八尾で文弥と名乗る年増の芸者に会い、「もしやと思って聞くとやはりあなたのファンでした。金沢のひこというものだと申し上げてくださいと」と言われたのだと言う。
 それから数年後、公演に出向いた八尾の座敷で偶然の再会を果たすものの、文弥が気付く前に飛行機は宴席から逃げるように消えてしまう。さらに数年後、金沢で、今度は宿に飛行機が訊ねてきて三十数年ぶりの出会いを果たす。晩年飛行機はあんま屋の二階に間借りをしてひとりで暮らし、七十過ぎに病気で死んだ。

 その後、昭和5年頃から数年の間、岡本文弥は「西部戦線異状なし」「太陽のない街」などを新内の新作として発表し、「赤い新内」「左翼新内」などと呼ばれていた時期がある。警察から検閲され公演には警官がはりつくような事もあったようだ。本人曰く思想を勉強したわけではなく、主義があったわけでもなく、「理屈というより感情が土台で、イバッてる警察が嫌だ、保守党の政治家が嫌いだ、というだけでね」「労働者の芸術という時代の波がやってきて、その中で『権力に反抗する』という『感激』を覚えたわけです」ということらしい。
 しかしそれから約60年後の最晩年には、新聞で読んだ従軍慰安婦の記事を元に「ぶんやアリラン」を作り発表する。これはネットで一部聴くことが出来たが、曲中に君が代を取り込むなどしていて政治的な面もある刺激的な曲だ。思いつきで出来るような代物ではない。

 岡本文弥は新内について以下のようにも語っている。

新内イコール遊里情緒とか遊女の嘆きとするのは定説で、あたしも長いことそう思ってきたけれど、調べてみると新内の曲目で遊里の曲は半分くらい…(略)…そうしばられることなく、新内は「もののあわれ」を表現するものと考えたほうがいいと思う。

新内は絶叫の芸術だ、ともいわれるけれど、心の中で絶叫しても芸としての表現はあくまで静かな味わい、その静けさの中に内面の絶叫が感じとれる、というようでありたい。外には出ない「泣き」の哀れを演奏したいと思いますね。

 最後にかっこいい言葉を。

西洋音楽の方の人たちは理論的な発声をしてますが、あたしたちは腹式呼吸だの、胸式呼吸だのといろいろ考えませんね、でたらめに出して、何か困ったことがあれば工夫はします。

長生きも芸のうち – 岡本文弥百歳
岡本文弥・森まゆみ 著
文庫版刊行日: 1998/12/03 
判型:文庫判
ページ数:336
ISBN:4-480-03439-0
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480034397/

ぶんやアリランを語ったのが九十八歳、椅子の背で体を支え……。コツコツと仕事をし芸にかけた孤高の新内語りの一世紀の人生。

目次:
浪花節全盛―明治に育つ
編集者時代―白山のアナキストたち
金沢情話
西部戦線異状なし―赤い新内のころ
色物席―新内舞踊から移動演劇まで
歌と句でつづる戦後史
中国の旅
新内のおこりから魯中まで―江戸新内の歴史
柳家紫朝と七代目加賀太夫―明治・大正の名人たち
思い出す人々
芸の心がまえ