長生きも芸のうち – 岡本文弥百歳/Bunya Okamoto 100 years old


 長生きも芸のうち – 岡本文弥百歳/森まゆみ著

 新内の浄瑠璃太夫、4代目岡本文弥がサバサバとした口調であれこれを語る。聞き役は作家の森まゆみで、あとがきには聞き書きとある。語られたものを元に資料をあたり補っているところもあるようだ。これはマイルス・デイビスとクインシー トループの名著『マイルス・デイビス自叙伝』に近い手法だ。出版は20年前の1993年。

  1895年生まれで101歳の長寿とあって、明治・大正・昭和と語る時期も幅広い。出会った人々についても多く語っているが、話題に上るのは竹下夢二や永井荷風といった授業で教わるような人物から、知る人ぞ知る芸の達人と多岐に渡る。その際、時に厳しい言葉で芸や人格について意見を述べているのだが、あっさりとして嫌味がないのが面白い。
 それでももし言われた当人が読めば腹が立つだろうが、すでに多くの方は灰になっており本を持つことさえ出来ない。逆もある。例えば盲目の初代柳家紫朝について語っているところ。

しずかに高座につき三味線をかかえるのがおぼろげに見える。この人の芸は声が小さく静かで、狭くてほそぼそとして、身をのり出し耳をあてないと聞けないようなものですが、客の心をギュッとつかみ、しぜんと涙が出るのです。修行した芸ですからじつに深みもあって節まわしもいい。

「あの人は実物を聞いてないでしょう、多分レコードでしょうけれども」とも書かれているので録音はあるのだろうが、手軽に聴けるようなものではなく今は想像する他ないが、余計に美化され魅力が増してゆく。脳内では輝く旋律のおぼろげな輪郭が明滅している。

 新内の成り立ちについてもページが割かれている。「新内の大もとは京都の一中節」としていて、時代的には17世紀末から18世後半にかけて確立したことになる。その間、一中節、豊後節、常磐津節、富本節、富士松節、清元節、新内節と「節」がたくさん出てくる。

 少しそれるが、ブルースがミシシッピ・ブルース、テキサス・ブルース、シカゴ・ブルースなど地名で呼ばれるのに対して、都太夫一中(みやこだゆういっちゅう)の一中節、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の豊後節、鶴賀新内(つるが しんない)の新内節と名から呼ばれているものが多いようだ。デルタ・ブルースとひとくくりにしても、チャリー・パットン、サン・ハウス、ロバート・ジョンソンでは相当違うわけで、「節」を「ブルース」に置き換えれば、パットン・ブルース、ハウス・ブルース、ジョンソン・ブルースとなる。地域と個人の名、この差は案外面白いかもしれない。

 しかし何気なく話をブルースに置き換えるのは、純邦楽が自分にとって身近ではなく、対して無知であるからだろう。何かとそうしがちだ。
 福井で存命の大叔母は三味線を弾くが、身内ではそれくらいで、晩年一緒に暮らした祖父はハーモニカか演歌のカラオケだった。若い頃はギターとアコーディオンを弾いたらしいが、右手を失い片手で扱えるハーモニカにしたそうだ。両親は楽器をしないので、おそらく自分が初めて触れた楽器は兄が習っていたエレクトーンだろう。幼稚園では合奏でバスドラムを叩いた記憶がある。次は縦笛だろうか。

 新内の歴史に戻ると、京都の僧侶が一中節を始め、その弟子が宮古路豊後掾を名乗り名古屋を経て江戸へ。豊後節は大変な人気を博したが心中などを扱う内容が風紀を乱すとされ、奉行所から興業も稽古も禁じられご法度になってしまう。宮古路豊後掾は京都に帰り死んだ。江戸には残った弟子達はそれぞれ常磐津、富本、新内の富士松を立てる。後に富本から清元が別れた。
 富士松派をおこした富士松薩摩掾(ふじまつさつまのじょう)の弟子、鶴賀太夫は反旗を翻し鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)を名乗った。出身地丸出しの名である。(敦賀の若狭湾は綺麗な海だ。親戚もいたので海水浴によく行った。残念ながら高速増殖炉もんじゅで有名になってしまったが。)
 鶴賀若狭掾は新内の代表曲「明烏」「蘭蝶」の他、多くの浄瑠璃を作ったとされている。言わば大作曲家である。そしてこの人の弟子の一人が鶴賀新内を名乗った。「この人は、よほど芸に特色があって、なんでも花柳病(今で言う性病)のため声が鼻に抜ける、それが大変面白く聞かれたそうで…」とある。また「別段、新作はないのですが…」ともあるので歌はあまりつくっていなかったのだろう。敢えてボサノヴァに例えるなら、鶴賀若狭掾がトム・ジョビン&ヴィニシウス・ヂ・モライスで、鶴賀新内がジョアン・ジルベルトだろうか(やはり置き換えると取っ付き易くはなる)。

 芸は変化を続ける。それがある時点で型となる。変化を続ける線と型として留まる点。線は時に型に還りまた進んでゆく。それはレコードやデジタルデータによって、共同体や師弟関係、教育機関に属さない人間にも広がった。孤独な環境であっても音楽の歴史の線と点に触れ、自らの音楽を奏で、望みさえすれば発表し、新たな線や型となる。

 岡本文弥は若い頃は遊廓でも流し金沢では儚い恋などもあったようだ。この話は印象深かった。相手の女性の名(源氏名)は飛行機という。当時変わった源氏名が流行していたとか。この名前が妙に引っかかっている。廓(囲い)の中の飛行機とは出来過ぎではないか。
 その飛行機との禁断の恋はすぐに噂になり廓から閉め出されてしまう。その後東京から金沢へ何度か通ったものの、廓に入ることは許されず会うことは適わなかった。
 二十数年後、戦後になって旧友から一通の手紙を受け取る。旧友は越中八尾で文弥と名乗る年増の芸者に会い、「もしやと思って聞くとやはりあなたのファンでした。金沢のひこというものだと申し上げてくださいと」と言われたのだと言う。
 それから数年後、公演に出向いた八尾の座敷で偶然の再会を果たすものの、文弥が気付く前に飛行機は宴席から逃げるように消えてしまう。さらに数年後、金沢で、今度は宿に飛行機が訊ねてきて三十数年ぶりの出会いを果たす。晩年飛行機はあんま屋の二階に間借りをしてひとりで暮らし、七十過ぎに病気で死んだ。

 その後、昭和5年頃から数年の間、岡本文弥は「西部戦線異状なし」「太陽のない街」などを新内の新作として発表し、「赤い新内」「左翼新内」などと呼ばれていた時期がある。警察から検閲され公演には警官がはりつくような事もあったようだ。本人曰く思想を勉強したわけではなく、主義があったわけでもなく、「理屈というより感情が土台で、イバッてる警察が嫌だ、保守党の政治家が嫌いだ、というだけでね」「労働者の芸術という時代の波がやってきて、その中で『権力に反抗する』という『感激』を覚えたわけです」ということらしい。
 しかしそれから約60年後の最晩年には、新聞で読んだ従軍慰安婦の記事を元に「ぶんやアリラン」を作り発表する。これはネットで一部聴くことが出来たが、曲中に君が代を取り込むなどしていて政治的な面もある刺激的な曲だ。思いつきで出来るような代物ではない。

 岡本文弥は新内について以下のようにも語っている。

新内イコール遊里情緒とか遊女の嘆きとするのは定説で、あたしも長いことそう思ってきたけれど、調べてみると新内の曲目で遊里の曲は半分くらい…(略)…そうしばられることなく、新内は「もののあわれ」を表現するものと考えたほうがいいと思う。

新内は絶叫の芸術だ、ともいわれるけれど、心の中で絶叫しても芸としての表現はあくまで静かな味わい、その静けさの中に内面の絶叫が感じとれる、というようでありたい。外には出ない「泣き」の哀れを演奏したいと思いますね。

 最後にかっこいい言葉を。

西洋音楽の方の人たちは理論的な発声をしてますが、あたしたちは腹式呼吸だの、胸式呼吸だのといろいろ考えませんね、でたらめに出して、何か困ったことがあれば工夫はします。

長生きも芸のうち – 岡本文弥百歳
岡本文弥・森まゆみ 著
文庫版刊行日: 1998/12/03 
判型:文庫判
ページ数:336
ISBN:4-480-03439-0
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480034397/

ぶんやアリランを語ったのが九十八歳、椅子の背で体を支え……。コツコツと仕事をし芸にかけた孤高の新内語りの一世紀の人生。

目次:
浪花節全盛―明治に育つ
編集者時代―白山のアナキストたち
金沢情話
西部戦線異状なし―赤い新内のころ
色物席―新内舞踊から移動演劇まで
歌と句でつづる戦後史
中国の旅
新内のおこりから魯中まで―江戸新内の歴史
柳家紫朝と七代目加賀太夫―明治・大正の名人たち
思い出す人々
芸の心がまえ