ルー・リードが亡くなって3週間、あーでもないこーでもないと考えているのは、一番好きなアルバムはどれだろう…ってこと。どうでもいいことなのに、バイトの行き帰りなどには間違いなくつらつらと考えてしまうので、そろそろ決着をつけたいと思う。
1. エクスタシー
2. マジック・アンド・ロス
3. ブルー・マスク
曲や歌もだけど、ルー・リードのギターがよく鳴ってるのがいい。
ベルベッツなら、ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート。

Japanese Underground Music, 2003-2026
ルー・リードが亡くなって3週間、あーでもないこーでもないと考えているのは、一番好きなアルバムはどれだろう…ってこと。どうでもいいことなのに、バイトの行き帰りなどには間違いなくつらつらと考えてしまうので、そろそろ決着をつけたいと思う。
1. エクスタシー
2. マジック・アンド・ロス
3. ブルー・マスク
曲や歌もだけど、ルー・リードのギターがよく鳴ってるのがいい。
ベルベッツなら、ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート。
魔法少女まどか☆マギカは2011年1月から4月まで放送されていたテレビアニメで、その後2012年10月にテレビ版を再編集した劇場版「前編 始まりの物語」と「後編 永遠の物語」が公開、2013年10月に新作「叛逆の物語」が公開された。
まどかの願い「過去未来全ての魔女を生まれる前に消し去りたい」と、ほむらの願い「私は鹿目さんとの出会いをやり直したい。彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」は相反する。テレビ版の結末でまどかは概念化し願いを叶え、ほむらの願いは叶わなかった。
映画版の新作「叛逆の物語」はその続編で、まどかが概念化してしまった世界をどう描くのか、また、ほむらの願いは叶えられるのか、と興味津々足を運んだ次第であった。
前半、5人揃っての変身シーンなど、暴力的なまでに快楽的な映像が続く。なかでも円卓を囲んでの連想ゲーム(戦闘)シーンは圧巻だった。
違和感と共に描かれる幸福な世界。これは幻だと観客は知っている。そしてほむらも次第にカラクリに気付き、その、ビューディフル・ドリーマーというよりは、トゥルーマン・ショー的な世界から逃れようとする。しかしまたしても、仏の掌の上で踊らされるかのごとく、キュゥべえの片棒をかつがされつつあることにも気付く。
中略。
世界に絶望し自らの欲望を肯定するに至ったほむらは悪魔となり、神(のような)まどかを捕らえ新たな世界を構築する。いびつではあるものの「出会いをやり直し」「彼女を守る」願いを叶えた形だ。
謎というか疑問を残すラストとなっているので、続編があるのかもしれない。しっかり観ていたのだが、後半のことを思い出そうとするとなぜだか記憶が曖昧だ。
起きてすぐ戸棚からMDを引っ張り出した。背にメノウと書かれた3枚のディスク。夢にでも見たのか、と不思議に思いながら、同じく引っ張り出したポータブルプレイヤーを慌ててミキサーに繋ぐ。
“そっと胴長の猫が目の前を歩き下を尖らせて足裏を舐める”
“熱い身体の火照りは少しずつさめて、どこに隠れてたこの平坦な乾いた砂地は”
“夜は降る降るブルーの砂漠の上、月も星もなくてただ夜だけが降る”
“今夜思い出したように風鈴は揺れる、どこの家からか水屋のざわめき、遠くで微かに疲れたようなパトカーのサイレン”
“今夜降る降るブルーの瞼の上、月も星もなくてただ夜だけが降る”夜は降る – 眼膿
この歌を聴く度に思い出す木造アパートの一室。窓を開けると小さな土だけの庭。夜明け前部屋を出て駅へ歩いた記憶。
家主はこの曲の作者で、友人というよりは先輩、年齢も6〜7歳上だったと思う。当時何度もライブへ通った。
ある日、彼はギターを置いて東北へ行ってしまった。
録音は1996〜99年頃。記憶が正しければ最後のライブは1999年で、3枚目のMDはその日客席で自分が録ったものだ。
アルバムのリリースはなく、活動時期もインターネットが普及する前であったため、メディアにもネットにも情報はない。録音されたものを持っているのは数人だろうと思う。3枚のMD、5日分のライブ、次に聴くのはいつだ。
新作、御留山ボトムズをリリースしました。以下のカートで先行発売中です。
今のところCD版のみです。
https://ghostdisc.stores.jp/#!/
今回、流通を通していなので、自前のカートと幾つかのショップのみでの販売となります。
年に一度、体育の日に高田馬場戸山公演で行われる。
駆ける馬に乗り3つの的を射る。
【会場】都立戸山公園箱根山地区(戸山3丁目)
【主催】高田馬場流鏑馬保存会
【協力】穴八幡宮、新宿歴史博物館(公益財団法人新宿未来創造財団)
【後援】新宿区、新宿区教育委員会、東京都教育委員会
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/?p=57279
高田馬場流鏑馬は享保十三(1728)年、八代将軍吉宗が世嗣(よつぎ)の疱瘡(ほうそう)平癒祈願のために奉納したことが始まりとされています。年に1度開催される神事をこの機会にぜひご覧ください。
日時:
2013年11月26日火曜日
19時半開場
20時開演
料金:
1700円
会場:
七針(八丁堀・茅場町・東京)- http://ftftftf.com
出演:
muffin – http://sound.jp/muffin/
Hisato Higuchi
20:00 – muffin
21:00 – Hisato Higuchi
今年最後かも。近日発売の新作「Otomeyama Bottoms」からの曲や制作中の曲などをやる予定です。
追記:
muffin / world of fog
https://soundcloud.com/muffin_jp/world-of-fog
Date:
2013/11/26/tue
19:30 – open
20:00 – start
Price:
1700yen
Place:
Nanahari(Hachobori – Kayabacho – Tokyo)- http://ftftftf.com
Act:
muffin – http://sound.jp/muffin/
Hisato Higuchi
20:00 – muffin
21:00 – Hisato Higuchi
Maybe, this is last live in this year.
I will play the music from new album “Otomeyama Bottoms“.
I will play the music that I am composing.
長生きも芸のうち – 岡本文弥百歳/森まゆみ著
新内の浄瑠璃太夫、4代目岡本文弥がサバサバとした口調であれこれを語る。聞き役は作家の森まゆみで、あとがきには聞き書きとある。語られたものを元に資料をあたり補っているところもあるようだ。これはマイルス・デイビスとクインシー トループの名著『マイルス・デイビス自叙伝』に近い手法だ。出版は20年前の1993年。
1895年生まれで101歳の長寿とあって、明治・大正・昭和と語る時期も幅広い。出会った人々についても多く語っているが、話題に上るのは竹下夢二や永井荷風といった授業で教わるような人物から、知る人ぞ知る芸の達人と多岐に渡る。その際、時に厳しい言葉で芸や人格について意見を述べているのだが、あっさりとして嫌味がないのが面白い。
それでももし言われた当人が読めば腹が立つだろうが、すでに多くの方は灰になっており本を持つことさえ出来ない。逆もある。例えば盲目の初代柳家紫朝について語っているところ。
しずかに高座につき三味線をかかえるのがおぼろげに見える。この人の芸は声が小さく静かで、狭くてほそぼそとして、身をのり出し耳をあてないと聞けないようなものですが、客の心をギュッとつかみ、しぜんと涙が出るのです。修行した芸ですからじつに深みもあって節まわしもいい。
「あの人は実物を聞いてないでしょう、多分レコードでしょうけれども」とも書かれているので録音はあるのだろうが、手軽に聴けるようなものではなく今は想像する他ないが、余計に美化され魅力が増してゆく。脳内では輝く旋律のおぼろげな輪郭が明滅している。
新内の成り立ちについてもページが割かれている。「新内の大もとは京都の一中節」としていて、時代的には17世紀末から18世後半にかけて確立したことになる。その間、一中節、豊後節、常磐津節、富本節、富士松節、清元節、新内節と「節」がたくさん出てくる。
少しそれるが、ブルースがミシシッピ・ブルース、テキサス・ブルース、シカゴ・ブルースなど地名で呼ばれるのに対して、都太夫一中(みやこだゆういっちゅう)の一中節、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の豊後節、鶴賀新内(つるが しんない)の新内節と名から呼ばれているものが多いようだ。デルタ・ブルースとひとくくりにしても、チャリー・パットン、サン・ハウス、ロバート・ジョンソンでは相当違うわけで、「節」を「ブルース」に置き換えれば、パットン・ブルース、ハウス・ブルース、ジョンソン・ブルースとなる。地域と個人の名、この差は案外面白いかもしれない。
しかし何気なく話をブルースに置き換えるのは、純邦楽が自分にとって身近ではなく、対して無知であるからだろう。何かとそうしがちだ。
福井で存命の大叔母は三味線を弾くが、身内ではそれくらいで、晩年一緒に暮らした祖父はハーモニカか演歌のカラオケだった。若い頃はギターとアコーディオンを弾いたらしいが、右手を失い片手で扱えるハーモニカにしたそうだ。両親は楽器をしないので、おそらく自分が初めて触れた楽器は兄が習っていたエレクトーンだろう。幼稚園では合奏でバスドラムを叩いた記憶がある。次は縦笛だろうか。
新内の歴史に戻ると、京都の僧侶が一中節を始め、その弟子が宮古路豊後掾を名乗り名古屋を経て江戸へ。豊後節は大変な人気を博したが心中などを扱う内容が風紀を乱すとされ、奉行所から興業も稽古も禁じられご法度になってしまう。宮古路豊後掾は京都に帰り死んだ。江戸には残った弟子達はそれぞれ常磐津、富本、新内の富士松を立てる。後に富本から清元が別れた。
富士松派をおこした富士松薩摩掾(ふじまつさつまのじょう)の弟子、鶴賀太夫は反旗を翻し鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)を名乗った。出身地丸出しの名である。(敦賀の若狭湾は綺麗な海だ。親戚もいたので海水浴によく行った。残念ながら高速増殖炉もんじゅで有名になってしまったが。)
鶴賀若狭掾は新内の代表曲「明烏」「蘭蝶」の他、多くの浄瑠璃を作ったとされている。言わば大作曲家である。そしてこの人の弟子の一人が鶴賀新内を名乗った。「この人は、よほど芸に特色があって、なんでも花柳病(今で言う性病)のため声が鼻に抜ける、それが大変面白く聞かれたそうで…」とある。また「別段、新作はないのですが…」ともあるので歌はあまりつくっていなかったのだろう。敢えてボサノヴァに例えるなら、鶴賀若狭掾がトム・ジョビン&ヴィニシウス・ヂ・モライスで、鶴賀新内がジョアン・ジルベルトだろうか(やはり置き換えると取っ付き易くはなる)。
芸は変化を続ける。それがある時点で型となる。変化を続ける線と型として留まる点。線は時に型に還りまた進んでゆく。それはレコードやデジタルデータによって、共同体や師弟関係、教育機関に属さない人間にも広がった。孤独な環境であっても音楽の歴史の線と点に触れ、自らの音楽を奏で、望みさえすれば発表し、新たな線や型となる。
岡本文弥は若い頃は遊廓でも流し金沢では儚い恋などもあったようだ。この話は印象深かった。相手の女性の名(源氏名)は飛行機という。当時変わった源氏名が流行していたとか。この名前が妙に引っかかっている。廓(囲い)の中の飛行機とは出来過ぎではないか。
その飛行機との禁断の恋はすぐに噂になり廓から閉め出されてしまう。その後東京から金沢へ何度か通ったものの、廓に入ることは許されず会うことは適わなかった。
二十数年後、戦後になって旧友から一通の手紙を受け取る。旧友は越中八尾で文弥と名乗る年増の芸者に会い、「もしやと思って聞くとやはりあなたのファンでした。金沢のひこというものだと申し上げてくださいと」と言われたのだと言う。
それから数年後、公演に出向いた八尾の座敷で偶然の再会を果たすものの、文弥が気付く前に飛行機は宴席から逃げるように消えてしまう。さらに数年後、金沢で、今度は宿に飛行機が訊ねてきて三十数年ぶりの出会いを果たす。晩年飛行機はあんま屋の二階に間借りをしてひとりで暮らし、七十過ぎに病気で死んだ。
その後、昭和5年頃から数年の間、岡本文弥は「西部戦線異状なし」「太陽のない街」などを新内の新作として発表し、「赤い新内」「左翼新内」などと呼ばれていた時期がある。警察から検閲され公演には警官がはりつくような事もあったようだ。本人曰く思想を勉強したわけではなく、主義があったわけでもなく、「理屈というより感情が土台で、イバッてる警察が嫌だ、保守党の政治家が嫌いだ、というだけでね」「労働者の芸術という時代の波がやってきて、その中で『権力に反抗する』という『感激』を覚えたわけです」ということらしい。
しかしそれから約60年後の最晩年には、新聞で読んだ従軍慰安婦の記事を元に「ぶんやアリラン」を作り発表する。これはネットで一部聴くことが出来たが、曲中に君が代を取り込むなどしていて政治的な面もある刺激的な曲だ。思いつきで出来るような代物ではない。
岡本文弥は新内について以下のようにも語っている。
新内イコール遊里情緒とか遊女の嘆きとするのは定説で、あたしも長いことそう思ってきたけれど、調べてみると新内の曲目で遊里の曲は半分くらい…(略)…そうしばられることなく、新内は「もののあわれ」を表現するものと考えたほうがいいと思う。
新内は絶叫の芸術だ、ともいわれるけれど、心の中で絶叫しても芸としての表現はあくまで静かな味わい、その静けさの中に内面の絶叫が感じとれる、というようでありたい。外には出ない「泣き」の哀れを演奏したいと思いますね。
最後にかっこいい言葉を。
西洋音楽の方の人たちは理論的な発声をしてますが、あたしたちは腹式呼吸だの、胸式呼吸だのといろいろ考えませんね、でたらめに出して、何か困ったことがあれば工夫はします。
長生きも芸のうち – 岡本文弥百歳
岡本文弥・森まゆみ 著
文庫版刊行日: 1998/12/03
判型:文庫判
ページ数:336
ISBN:4-480-03439-0
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480034397/
ぶんやアリランを語ったのが九十八歳、椅子の背で体を支え……。コツコツと仕事をし芸にかけた孤高の新内語りの一世紀の人生。
目次:
浪花節全盛―明治に育つ
編集者時代―白山のアナキストたち
金沢情話
西部戦線異状なし―赤い新内のころ
色物席―新内舞踊から移動演劇まで
歌と句でつづる戦後史
中国の旅
新内のおこりから魯中まで―江戸新内の歴史
柳家紫朝と七代目加賀太夫―明治・大正の名人たち
思い出す人々
芸の心がまえ
幸福の遺伝子/リチャード・パワーズ著
『幸福の遺伝子』はアメリカの作家リチャード・パワーズが2009年(翻訳は2013年)に発表した小説。
前半は、元作家で非常勤講師のラッセル・ストーンと学生のタッサ・アムズワール、遺伝子学者のトマス・カートン、ジャーナリストのトニア・シフの3つの話が平行して進んでいく。
ラッセル・ストーンは過去に、街で出会った人々を題材にしたエッセイ(創作的ノンフィクション)を雑誌に発表していたが、モデルとした人物の親族や知人から批判の投書を受け取る。さらにその人物の一人が、未遂に終わったものの自殺を企ててしまう。それ以降彼は文章が書けなくなり、自己修養系雑誌に掲載する読者投稿を添削する仕事についた。
話の早々に示されるこの「作家」「モデルとなった人物」「読者」「雑誌」の関係は、主題の「伝える者」「対象者」「受け取る者」「媒体」の関係を、彼の経歴から端的に示している。
ラッセル・ストーンに構造的に対応するのがトニア・シフで、彼女はTVのドキュメンタリー番組を作っており、遺伝子学者についての番組を制作中だ。そして後にタッサ・アムズワールも撮ることになる。
もうひとつのテーマは遺伝子。アルジェリア出身ベルベル人の学生タッサ・アムズワールは、生い立ちが極度に不運ながらも、つねに幸福感に満たされていて(本人がそう自覚しているわけではない)、その多幸感は回りの人間にも分け隔てなく伝播する。元作家は戸惑いながら、彼女は先天的な「感情高揚性気質=ハイパーサイミア」ではないかと勘ぐり始める。そしてある事件をきっかけに、彼が不用意に口にしたその言葉がニュースとして流れ、ネットを中心に話題となり、彼女は世間の注目を浴びる事になる。
学者で経営者(遺伝子関連の特許等で大儲け)のトマス・カートンはある日、タッサ・アムズワールの記事を見つける。興味を持った彼はタッサに接触を試みる。
リチャード・パワーズの他の作品に比べると入れ子構造はゆるやかだが、元作家のラッセル・ストーンを中心に3つの話は次第に距離を縮め絡み合っていく。
また、タッサは映像を勉強中で作品(街や人々を素材にCGで加工したもの)を作っているし、元作家や学者も物語後半、ある事がきっかけで不本意ながらゴシップ的な世間の注目を集める事になる、等々、立場も不定で入れ替わる。
後半のあらすじは伏せるが、ある人物の変化には心が苦しくなった。残念な気持ちと既知の予感。奇跡の話でもあり、よく知る世界の話…。なんとも苦く、親密で、心に刺さる作品。
ちなみにリチャード・パワーズは優れた作品を多く書いており、『囚人のジレンマ』『ガラティア2.2』『われらが歌う時』等は、いずれも力作で読後に深い余韻を残すものだった(『舞踏会へ向かう三人の農夫』は少々退屈…前作の『エコー・メイカー』は未読)。
幸福の遺伝子
リチャード・パワーズ 著
判型:四六判変型
頁数:430ページ
ISBN:978-4-10-505874-6
発売日:2013/04/26
http://www.shinchosha.co.jp/book/505874/
彼女が幸せなのは、遺伝子のせい? 鋭敏な洞察の間に温かな知性がにじむ傑作長篇。
スランプに陥った元人気作家の創作講義に、アルジェリア出身の学生がやってくる。過酷な生い立ちにもかかわらず幸福感に満ちあふれた彼女は、周囲の人々をも幸せにしてしまう。やがてある事件をきっかけに、彼女が「幸福の遺伝子」を持っていると主張する科学者が現れ世界的議論を巻き起こす――。現代アメリカ文学の最重要作家による最新長篇。
オース!オース!オース! バタヤンの人生航路/田端義夫著
歌手、ギターリストのバタヤンこと田端義夫氏の自叙伝的エッセイ。自身の人生を航海に例え、簡潔に時に熱く巡る。1919年、大正生まれのバタヤン。少年時代、貧しさゆえに苦労が多く、13歳の時に名古屋へ丁稚奉公に出ている。それ以前、5人の姉も若くして芸者に出たが、姉しげのが家を出た日のエピソードが涙を誘う。
いちばん仲のよかった姉しげのが名古屋へ芸者に行くことになった。駅まで送っていく途中、義夫、赤とんぼを一緒に歌おうと言い出した。悲しさを紛らわすためだったのだろう。
この歌は、父親が亡くなり上の姉たちが芸者に出て、家に、母親、姉しげの、義夫、弟の4人になった時、寂しさを紛らわすように、夕方になると縁側でみんなで歌った歌だった。
その後若くして認められ瞬く間にスターになり、多くの映画にも出た。人気が落ち込んでも再びヒットを飛ばした。過去を振りかえることなく帆を進めた。しかし65歳の時に患ったヘルペスの治療で、下半身が麻痺し歩けなくなった時、歌や人生を客観的に見つめなおし、神の啓示のようにこう思ったという。
「そうだ、さりげなく歌おう、さりげなく」